慶雲館は遥かな時を越えてきた宿。ギネス・ワールド・レコーズに「世界で最も歴史ある温泉宿」として登録されている。創業は西暦705年。元号でいえば大化から数えて5番目の慶雲年間だ。館名も元号に因む。平城京遷都の5年前、古事記編纂の15年前の創業といったほうが歴史の重みが伝わるだろうか。当代館主は53代目である。慶雲館へは身延方面から早川に沿った南アルプス街道をひたすら遡る。急峻な谷、幾つものトンネルを抜けたその先、深い森の中に近代純和風建築の建物が忽然と姿を現す。到着すると誰もが「やっと着いた！」と口にするそうである。道のりは遠くとも、館内には疲れを忘れさせてくれるすばらしい源泉掛け流し温泉が待っている。期待に胸が膨らむ。
早川町を貫くのは日本列島を東西に分断するフォッサマグナ。館内からも断層の違いを眺めることができる。その大地溝帯の地下で歳月をかけて涵養され、枯れることなく自然湧出する4本の源泉が宿の歴史を育んできた。開湯の歴史に名を残す藤原真人（鎌足の長子）といった都人や信玄公、家康公ら時の名将、文人墨客たちにも”甲斐の山ふところの秘湯“として愛されてきた名泉である。

宿では開湯千三百年の記念事業として温泉を掘削し、泉温52度、毎分1600リットル以上（ドラム缶約8本）という日本随一の湧出量の自噴泉を掘り当てた。既存の源泉と併せれば、毎分約2000リットルもの湯量になる。慶雲館では6種の浴場はもちろん、部屋風呂、給湯、シャワーに至るまで加水･加温なしで掛け流している。無色透明でアルカリ度が高く美肌効果も抜群。飲泉すれば消化器病や糖尿病などにも効く温泉だ。

4階には慶雲館の顔ともなっている野天風呂『望渓の湯』。独特の香りと肌ざわりの良い高野槇の浴槽に滔々と湯があふれ、早川のせせらぎや川面を渡ってくる風にも癒される。最上階には展望風呂『桧香の湯』と石造りの『石風の湯』。建物が山の中腹にあるため、大自然のパノラマを手に取るように眺めることができる。桧香の湯の浴槽は二千年以上根を張った古代檜。その温もりと融けあう温泉が心地良い。深山幽谷の風情を川べりの温泉に浸かって愛でるなら、石風呂『渓流野天風呂白鳳の湯』や、15人のグループでも入れる貸切野天石風呂『川音』『瀬音』へ。白鳳の湯の湯船は早川流域産出の白鳳石で湯をかけると濃い青に変わる。これもまたフォッサマグナの産物だ。

源泉掛け流しの露天風呂や内風呂を備えた客室はいずれも純和風の趣。日本の伝統を大切に意匠を凝らした客室が揃う。源泉掛け流し露天風呂付特別客室『北岳』は華やかな本間16畳、小粋な次の間8畳、前室からなる贅沢な広さの空間。香り豊かな総檜造りの露天風呂も忘我の境地へ誘う。湯上がりにはウッドデッキの月見テラスへ。渓谷や対岸の自然をベストアングルから眺める至福の時間を満喫できる。

料理は全国日本料理コンクール郷土料理部門で国土交通大臣賞を受賞した料理長が日本料理の粋を凝らして手作りする「深山会席」。海のものは一切使わず、山河の旬の恵みを凝縮した料理の数々は慶雲館でしか賞味できない。練り物からマヨネーズに至るまで徹底的に手作りにこだわり、料理によって8種類の塩を使い分けているそうだ。一頭買いする甲州牛は金賞連続受賞の最高級A5ランク。富士山2合目の溶岩で焼く「甲州牛の溶岩焼き」はまさに逸品である。いつ訪れてもその美味しさに出会うことができる。
四季の営みを繰り返す大自然と尽きることなく湧き上がる温泉…。1300年前と何ひとつ変わらないものが愛おしい。旅心が歴史を遡っていく。