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社員を育てる10の心得
日本を代表する宿としてその名を知らぬものがいない石川県和倉温泉「加賀屋」。女将は小田真弓さんである。加賀屋のおもてなしの礎を築いたのが先代女将の故小田孝さんとするなら、日本一のおもてなしで全国に名をとどろかせる加賀屋の今日の隆盛をもたらしたのが小田真弓さん。「一生懸命におもてなしをする心や、働いてくれている社員を大切にする姿勢もすべて義母から教わりました。お客様への心や姿勢は、時代が変わっても守っていきたいと思っています」と語る小田真弓さん。特に人材育成には定評がある。
笑顔で社員のいいところをほめる。社員に注意するときは言葉に気をつける。社員と気持ちを通じ合わせる。時には気分転換させる。不器用な社員や要領の悪い社員ほど可愛がって大切にする。自己啓発の機会を持たせる。ひと言多い社員や段取りを優先するような社員を注意する。知識を教える。相性が合わないときは配置換えする。そして、すべての責任は女将にあること。これが小田真弓さんの人を育てる10の心得であり、その前提にあるのが「現場に宝物あり」という考え方だそうだ。
毎朝事務所に顔を出し、それまでの接客の詳細な報告を受ける。内容をすべて把握した上でお客様お一人ひとりをお見送りする。客室係たちの先頭に立ち、ほぼ九十度に腰を折り、お客様に向かってにこやかに手を振る姿はバスが見えなくなるまで続く。
続いて客室センターやフロント、調理部とその日どんな団体が到着するのか、常連客がいるのか、客室係の割り振りに支障はないか、記念日などで訪れる人の準備に遺漏がないかなどにも気を配る。午後のわずかな休憩を挟んでミーティングを行うと、やがてお出迎えの時間。館内が賑わい出すと、支配人と手分けして客室へと出向いて挨拶をする。夕食は客室も宴会もおおかた終わった後だそうである。こうした毎日を繰り返し、鋭い観察眼と研ぎ澄まされた神経でサービスに不手際がないか、館内すべて、そして社員たちの様子も把握している。まさにもてなしの達人である。
客が待っていた宿 宿が待っていた客
山形県かみのやま温泉「日本の宿 古窯」。古窯の名が敷地内に発掘された約1300年前の奈良時代の窯跡に因んで名付けられていることは広く知られている。窯跡には窯神社が祀られパワースポットになっている。おもてなしの一つになっているお客様自身による楽焼体験は、日本広しといえども古窯でしかできない体験である。
ロビーから続くのが「楽焼画廊」。各界の著名人の楽焼作品が数多く展示されている。館内に広がる空間随所にも飾られており、ふと目が足が止まる。
瀬島龍三氏は「古き窯で新しきを創る」と、立川談志師匠は「伝統を現代に」と描いている。古窯のおもてなしの印象を当意即妙に描いたのだろう。言葉はまさに、古窯そのものである。名優森繁久弥氏は「とど松や樹氷ころもの何憶う。蔵王あたりに降りしきる雪」と描いている。大空へと広がるような展望大浴場から眺めたのであろうか。雄大で峻烈な蔵王の自然を垣間見る思いである。漫画家やくみつる氏が似顔絵とともに描いたのは「茂吉よ今夜もありがとう」。かみのやまは歌聖斎藤茂吉のふるさとである。永六輔氏の作品には「客が待っていた宿 宿が待っていた客」。楽焼作品を通して訪れるお客様との良縁を願う古窯。氏の楽焼に感じるのは、縁である。二代目女将は「ご縁が楽焼になり、楽焼からまた出会いが生まれます。楽焼作品は多くの方々のご縁に恵まれ愛されてきた古窯の歴史そのものです」と語っている。
二代目女将であり、現在社長を務める佐藤洋詩恵さんが上梓した書「古窯曼陀羅」には、自身の体験とともに、師として心から尊敬する義母、初代女将佐藤幸子さんへの深い感謝の想いが綴られている。2023年には、現在古窯の副会長を務める佐藤幸子さんの書「縁」が上梓された。橋田寿賀子氏や瀬戸内寂聴氏、石原慎太郎氏らとの心の触れ合いのなかから、人間味あふれる生き方や印象に残る言葉のやりとりをまとめたものだ。直木賞作家の高橋義夫氏をして「この〝縁〟が記念すべき10冊目。ますます快調。人生の達人だ。驚嘆する」と言葉を寄せている。
旅館女将として初めて、二人同時に「現代の名工」に選出
厚生労働省では1967年から、その道の第一人者で日本における最高水準の技能者を選出し表彰している。それが「現代の名工」である。2018年、その「現代の名工」に飲食物給仕人として選出されたのが加賀屋の小田真弓さんと古窯の佐藤幸子さんのお二人である。おもてなし分野、特に旅館女将としては初めての栄誉だった。
小田真弓さんは先代から引き継いだおもてなしの心で、「お客様第一主義」を徹底。玄関での出迎えや客室などでの顧客対応、見送りまでの加賀屋流のおもてなしを確立した。さらに、料理搬送ロボットや企業内保育園の導入など、社員がおもてなしに力を発揮できる環境を整えたことなども高評価を得ている。
佐藤幸子さんは、日本を代表する伝統的な旅館女将としておもてなしの技術を後進に伝えている点が高く評価された。40年前にすでにスタッフの労働を軽減させるために、館内に料亭を設置するなど、サービス体制の合理化に取り組んだ実績や、「旅館を経営・采配する女将の技が模範となる」ことが主な選出の理由となった。
加賀屋の小田真弓さんは「旅館女将が『現代の名工』に選ばれたことは名誉なことです。目に見えない旅館のおもてなしが評価され、大変うれしく思っています。そして私は加賀屋で働く人たちの幸せを願わずにはいられません。お客様を大切に思うなら、その人たちと接する客室係も幸せでなければならないのです」とその栄誉を受けとめている。2024年元旦の能登半島地震によって大打撃を受けた和倉温泉。大型旅館の加賀屋が受けた被害も甚大だ。今願うことは一刻も早い加賀屋の再始動である。ぜひその暁には能登へ加賀屋へ。もう待ちきれないという人も多いのではなかろうか。
古窯の佐藤幸子さんは「心のおもてなし、という技能を言葉で表すことはむずかしいものですが、旅館の女将が現代の名工に選ばれたということは、とても名誉なこと。旅館の女将は世界のどこにもない日本の文化だと思います」と語っている。宿と訪れる人の楽焼を通じての「縁」は未来永劫続いていくことだろう。